今日はとあるカウンセラーの方々の症例検討会に参加してきました。
カウンセラーと言いましても、精神療法、心理療法には様々な流派がありまして、
考え方、アプローチの仕方も様々です。まるで、武道ですな。
さて、今日の検討会は、様々な流派の方々が集まるミニカンファレンスだったのですが、
色々な意見が飛び交い、刺激的なカンファレンスでもありました。
精神療法、今日は、精神分析の方の発表でした。
(ややこしいと思われるかもしれませんが、精神分析にも様々な流派があります、、そういう意味でも、精神分析学会は異種格闘技の様な面白さもあるのですが、、)
生涯、現場主義の私としては、(研究にも憧れているのですが、、、ここはスルーで、、)精神科医となり、4年間、とある精神分析セミナーで学び、その後4年間、とある精神分析の流派の技術を徹底的に学びました。
毎週、自分の持っている症例に関して、supervisionを受けます。
おかげさまで、私のカウンセリング技術はここで身につけました。
今でも、私の診療の核になっていることは間違いありません。
しかしながら、精神分析はあくまで言語を介した治療です。
最近は、精神分析の非言語的な側面に関し、言及する方もいらっしゃいますし、
そういう研究をされている方々もいらっしゃいます。
学会でもカンファレンスでも、それぞれの方が、その症例のイメージを湧き起こそうと、
具体的な質問も飛び交います。
ただし、私見ですが、それは発表者や評価者、聴衆の間で完全に共有されるものではありません。
なぜなら、各人の脳が違うからです。思い描くイメージ、感じる世界、それぞれの脳が個々に作り出すイメージで中々、その症例に対して、いわゆる現場を想起するのは困難なことです。
誤解の無いように申し上げれば、私は精神分析のトレーニングを受けて来ましたし、それは今後のカウンセリングの中核になると信じています。
ただ、私の目指すのは、言語を超えた治療です。これが、私の言うところの、「気」を取り入れた治療技術です。
フロイトは催眠を捨てました。一方でエリクソンは催眠の技術を発展させました。
治療が単なる催眠であってはいけないのは自明の理です。有効なこともあるのでしょうが、
時に、両刃の剣となります。「洗脳」です。
それならば、「気」をサーチし、「気」の流れを変える様な治療があっても良いのではないかと考えました。
言語と気による治療。
今の私には、これが、一番、効果のあるものではないかと考えています。
さて、今日のカンファレンスの内容にもどります。
かなり重症の方の症例であり、発表者のカウンセラーも疲弊しているような状態でした。
ここで、とある流派、ベテランの方の意見が、とても参考になりました。
「(その病気の)その人の倫理観とか変えようと思っても、それは駄目よ。それより、治療者と患者さんが、治療を続けている、それが今、その人の為になっているんじゃないかしら。」
その通りだと思いました。そのクライアントの超自我の書き換えは相当困難なケースです。
それならば、そこをまるっと受け止め、治療者がぶれないでいる、そのスタンスが必要だと私からもコメントしました。
精神療法というのは孤独な世界でもあります。セラピストの苦悩を和らげてくれるような症例検討会でした。
真摯でまじめにクライアントの苦悩を受け止めるカウンセラーはかなり大変な仕事です。
しかし、今回のケースに関してはセラピストがクライアントの「気」に相当影響を受けている印象もありました。
私自身もこれまで、病態の重いクライアントの症例を何度も経験してきました。時には、自分の体調が乱れたり、私生活にまで影響を及ぼすような事もありました。
そういう修羅場をかいくぐり、私は今、ここに立っています。
空、無明、気。
時には修行不足で体調を崩すこともある私ですが、絶対に現場では逃げたくありません。
ここは私も、武闘派ということで。^^;
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