先日の日記で書いた「目を見て話さない精神科医」について一考察。
時々、他のクリニックから転院してくるクライアントの方がいらっしゃいます。
その中で、時々挙がる理由が
「私が話しをしているのに、先生は目をあわせようともしない。」
というものです。
最近は電子カルテ等の導入だったり、カルテ書きに専念しているという理由もあるのでしょう。
しかし、私はこれは、ある意味、人としての本能なのではないかとも考えます。
「目は口ほどに物を言い、、」
等と言いますが、脳科学では目の動きで、色々な情報が得られることがわかっています。
例えば、何か質問して、一瞬考えるときに、眼球の方向でその人が映像として思い出しているのか、聴覚、言語で思い出しているのか、嘘をつこうとしているのか等は一つの現象です。
眼球運動と海馬等の脳の構造、機能によって起こる現象です。
また、以前、EMDRといい、あえて眼球を動かさせることで、外傷体験の記憶を簡単に言えば小さくしてしまうという治療も行われていました。最近は、そのトラウマも逆にvividに想起させてしまうという事等を理由にあまり、行われていないようです。
これも、眼球運動と脳の密接な関係を利用したアプローチでもありました。
もうひとつ、上げられるのが、「気」を介した関係です。
目というのは、ある意味、相手の脳内に「気」を使って、侵入できる経路でもあります。
簡単に書いているようですが、これは、先天的に得意な方もいらっしゃいますし、
後天的にトレーニングである程度身につけられるとは思っています。
精神医療に限らず、「目を見て離されるのは苦手。」という方も結構いらっしゃいます。
本能的に相手のフィールドに飲み込まれるのを防御しているのではないでしょうか?
もう、おわかりですね。
目を合わせれば、逆に相手の「気」に飲み込まれるリスクを背負うわけです。
こちらの「気」が勝っていれば、相手に飲み込まれませんし、負けていれば飲み込まれます。
って、別に勝負の世界ってわけでは無いのでしょうけど、、、
相手を癒す「気」は、こちらが創作していなければいけないわけですし、
「気」のプラスマイナスはあって、当然ですから。
私の所属するクリニックの場合、私の受け持ちで平均的に40-60人くらい一日に診療します。
時にはヘビーな話を連続して聞くこともあります。
「気」の存在を知らない精神科医はかなり疲弊することが予想されます。
(よっぽど商業主義でやっていれば別ですが、、、)
クライアントの「病気」と付き合っていれば、楽かもしれません。
ただ、精神科医という仕事は、どこか、その人の「人生」と付き合わなければならないのです。
若くて熱心な精神科医は、相手に共感しようと努力するでしょうし、かなり無意識に「気」を使っていると思います。
ましてや、「気」に敏感な人は、クライアントのフィールドの飲み込まれてしまうでしょう。
診療の場では、弱った「気」、病気による「邪気」、様々なものが飛び交います。
冒頭の「目を見て話さない精神科医」というのは、ここが根底にあるのでは?と思います。
すなわち、クライアントに飲み込まれてしまうのを本能的に避け、言語を介しての
治療に集中するというスタイルです。
それはそれで、別に、クライアントが良くなれば良いと思っていますし、
それがそのセラピストのスタイルならそれでも良いかとも考えます。
ただ、私の場合は、「気」を介しての治療を志していますので、いつもがっつり相手の目を見ます。
と書けば、まるで、合気道の勝負のようですが、、ある意味そういうところもありますが、
癒されるフィールド作りも必要ですし、ぶれない自分を作るという信念もあります。
大周点レベルがわかっていれば、私の「気」が減ることはそうそうありません。
といっても、慢心、油断は禁物、時々、正直体調を崩すこともあります。
まだまだ、修行不足ですな。
そういう意味ではクライアントから教えられることもたくさんあります。
人と人が向き合う治療、大切にしていきたいと自分を戒める今日このごろです。
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